『affinity』『sign』

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『映像の身体、身体の映像』上映展@西元町6townシアター。
佐々木友輔さんの『affinity』(miniDV/18min./2006)と石塚つばささんの『sign』(miniDV/17min./2006)を見てきました。以下、わたしの個人的な関心と重なる部分が多い気がした『affinity』を中心に感想のようなものを書いてみます。なんといってもこの映画では、登場する人物たちの身体は、その顔と手以外、画面に映らないのです。
このことはすぐに、わたしたちがふだん何気なくおこなっている「見る」という行為についての反省を促します。あなたは他人の身体のどこを見ているのか、見ることはふれることでもあるのではないか、いや場合によっては、暴力にさえなっているのではないか、などなど。またこの映画は、映像そのものも身体に見立てて、あえて映さない部分をつくることで、作品にとっての「全体」とは何か、ということについても再考しているように思いました。
身体を見られること/見ることを恐れている主人公Aが、同じ悩みをもつBに出会い、自分たちを苦しめる恐怖から自由になれるかもしれないと淡い期待を抱くのですが、ふたりは互いに力になることができず(Bにその前髪をさわられたAが、思わず固まってしまう場面があります)、結局は別れてしまいます。
半年ぶりの偶然の再会、『affinity』は、そのときふたりが共有するわずかな時間を描いているのですが(この二人をいずれも若い女性が演じていて、相手をキミと呼ばせたりしています。佐々木さんは、主人公の性別を固定するつもりはない、と仰ってました)、わたしが気になったのは、最後にBが自分の前髪にふれるシーンでした。
それを見たAが、まるでそれがサインでもあるかのように(だから題名が石塚さんのと逆ではないのか、と思ったりしたのですが)、自分の前髪にやはりふれるのです。このリヴァースショットのあとに継いであるのが、ふたりが部屋の床に横たわって向かい合い、やはり同じことをしているのを俯瞰でとらえたカットで、どうやらこれは過去の一場面のようでした。この向かい合って同じ行為をしていたお互いを思い出すことで、ふたりは新たなスタートを切ろうとしているらしいのです。
そしてこれはもちろん、あとから気がついたのですが、自分自身にふれるということが、他者へと向かう原点のようなものだったんだな、と。自分自身にふれることさえないのだとしたら、それは「身体」も「意識」もなしに生きることになる、と書いたのはミシェル・セール(『五感』p11-12)で、今回それを思い出させてくれたのは、鷲田清一(『感覚の幽い風景』p56)でした。

皮膚がそれ自身に接するところ、折り畳まれるところに「魂」があるというのは、たしかにとても魅力的な思考だ、「心」を見えない内部としてとらえたり、その奥底について考え及んだりするより、それを表面の効果として語ることで、「心」は見えるものになる。ひとの顔やふるまいや佇まいを眼にすることで、そのひとが浸されている悲しみを知るのだから。


そういえばこの映画は、閉じられた(したがって、それもまた自身にふれているといえる)瞼が、強すぎる朝の光によってこじ開けられようとするのを拒む場面からはじまっていました。相手の顔を見ようとして、しかし思わず覆った手の指と指(これも自身にふれている部分です)を少しずつ開いて、そのあいだから覗き見える瞼がまたゆっくりと開いて、やっと見えてくる瞳、そんなシーンもありました。
そして、登場するふたりともが、ほとんどのシーンで口を閉じていて、だから唇がもうひとつの唇にふれたままになっていることが多く、セリフはアフレコされたのが聞こえるので、対話が内面の声のようにも聞こえて、互いにテレパシーで想いを伝え合っているようにも思えるのでした。でもそれは、けっして自己内対話のように閉じているわけではなく、ふたりのあいだにはちゃんと「距離」があって、お互いがやりとりにチューンを必要としている、そのぶんだけ外に向けて開かれている、といった感じでした。
今のお互いを確認はしても、その場逃れの気休めをいったり、無責任に背中を押したりしないで、少し離れて、しかし待っている。まずは自分自身にふれながら、できれば他者のほうへ、少しずつ歩み出そうとしているふたり。ちょっと距離をおいた寄り添い方で、けれども互いの歩みを見守り、応援しあう彼女たちの姿を、映画は切り取っていました。
セールはこんなふうにも書いていました。

画家は指の先で画布を愛撫したり攻めたてたりするし、作家は紙を犠牲に供し、紙に痕跡を記し、押しつけ、圧し、刻印するのだが、そのとき、彼らの視力は、ほんの鼻の先にあるものに対してさえも失われている。彼らの視覚は触覚によって無化されているわけだ。画家と作家は、杖や棒でしかものを見ることのできない二人の盲人なのだ。芸術家や匠は刷毛や筆、土やペンによって仕事をするが、決定的な瞬間には肌と肌の触れ合いに身を委ねる。接触を拒絶するならば、何人も決して陶冶されず、戦うことも、愛し合うことも、知り合うことも決してない。(前掲書 p33)

皮膚という衣服はわれわれの記憶を保存し、それをあらわにしている。それは虎や豹にあるような種としての記憶ではなく、個人の記憶、各人それぞれのマスク、外化されたその人個人の記憶である。自分の過去や受動性をさらけ出すことへの羞恥心や慎みのゆえに、われわれはケープやマントで身を包み、そうすることによって、受動的メッセージでありカオス的メッセージであり、理解されるにはあまりに無秩序でことばにならない言語である絵入り模様の刻まれた自分の皮膚を隠し、交換可能で紋切り型の衣服やプリント地によって、あるいは単純化された化粧の秩序によって皮膚を覆う。厳密に言えば、われわれは決して裸で生活しているわけではなく、また真に衣服を纏ってもいず、正確な意味での世界のように、決してヴェールをかぶってもいず、ヴェールを脱いでもいない。法則はつねに装飾的なヴェールと同時に出現する。それは、ヴェールが現象として姿を現わす正確にそのときに出現するのだ。ヴェールの上のヴェール、脱皮の上の脱皮、刻印を受けた多様体。(同 p38)


石塚さんの『sign』には、乳白色の液体の中で長い髪が浮き沈みするシーンなど、その映像の密度の濃さに圧倒されたのですが、もともとは自身の美術作品のプロモーション用に作成したヴィデオを、それぞれの作品が自分にとってどういう意味をもっていたかを問い直すかたちで物語になるように編集し直した、というようなことをご自身で説明されていました。わたしは、どちらかというと、ひとつの物語におさまりきらないモノたちの充溢を楽しみました。そして「親和力」なら、こっちにもあるぞ、と。それから、佐々木さんの作品のせいもあってか、投げ出された一本の脚なんかも、かなり印象に残ったのでした。
今回のイヴェントを教えてくださったKさんに、感謝します(映画のあと、お話できたのも楽しかったです)!
佐々木友輔さんのHPはこちら。http://www.geocities.jp/qspds996/main4.html


感覚の幽い風景

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